女川さいがいFM☆中の人かく語り記

A small small radio station was born in the town which suffered destroying damage by the past which isn't so far, 2011 and a tidal wave.

ドキュメント・女川さいがいFM:2011年3月12日土曜日 故郷はどこへ消えた?

では、そもそも女川さいがいFMはどうして生まれたのか?

なんのために?、誰のために?、放送を送り届けてきたのか?

 

全てのはじまりは2011年3月12日土曜日、朝8時過ぎまで遡る。

 

「あちゃー、全部無くなってる!!」

テレビから映る宮城県女川町の空撮ライブ映像を見て、男は思わず声を上げた。

 

男の名は松木 達徳 40才、

テレビが、いま、まさに映し出しているその女川町の出身、
実家はJRの女川駅近くにある商店街で薬局を営んでいた。

 

過疎化が進み、未来のないふるさとに興味が持てず、

高校卒業後、東京へ出て早20年

最近は年に1~2回帰省するくらいの故郷だった。

両親も高齢となり、数年前から店もシャッターを下ろしたままになっていた。

 

それでも自分の育った我が家である。

見間違うはずもない・・が、周囲にあった町並みと共に

本来在るはずの場所から綺麗さっぱり消え去っていた。

3月11日金曜日午後2時46分

東日本大震災が発生

それからほどなくして、三陸沿岸部は次々と津波に襲われた。

女川町を津波が襲ったのは午後3時32分だった。

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津波のことは子供の頃から聞かされていた。

1978年には宮城県沖地震も体験している。

しかし、その宮城県沖地震でも、

数日前から繰り返し発生していた震度5クラスの地震でも

大きく被害が出るほどの津波は無かったこともあり、

まさかここまでの津波が来るとは思ってもみなかった。

 

また、そもそも実家の建物をはじめ、
女川町の商店街の店舗は三階建て以上が多かった。

 

女川町は1960年(昭和35年)にも大きな津波被害を受けている。
南米チリで発生した地震に由来するいわゆるチリ地震津波だ。

 

その当時、木造平屋建ての建物が多かった女川町の商店街は、
今回と同じく津波で大きな被害を受けた。

そのときの教訓から、その後建て直された建物は
鉄筋のビル、あるいは一部に鉄骨を使った三階建て以上が増えたのだ。

 

もしも津波がきたとしても、
三階以上あれば、建物の中にいても助かるはず・・。
そう考えていた人も多かった。

 

しかし、これが結果として裏目に出てしまった。

 

今回の津波は、三階をはるかに上回る

15~20メートル以上の高さとなって押し寄せたのだ。

それは水というよりも、「黒い壁」のように見えたという。

 

結果、女川町では人口のほぼ一割近く824人の方が犠牲となった。

 

変わり果てたふるさとの姿、

跡形もなくなっている実家をテレビで確認した松木は顔が真っ青になった。

 

店を閉じ、半隠居状態だったとはいえ、

父は家庭裁判所の調停委員などの地域活動もしていた。
心配だったのは病気がちな母だったが・・・

それでも・・・、なんとか助かってくれているのではないか?という希望はあった。

 

地震発生の5分後、幸運にも両親と電話が繋がり、

「(建物も、自分たちも)大丈夫だが、念のためにこれから高台に避難する。」

と言われていたからだ。

「たぶん、父がいればどうにかなるだろう」と自分に言い聞かせた。

 

その頃、松木の両親は町中心部にあった5階建ての建物、

女川町生涯学習センターの最上部にある機械室の中にいた。

 

生涯学習センターは、各種式典やコンサートやイベントなどが行えるホールや、
調理実習室、会議室などを備えた町随一の文化施設であった。

 

津波はこの建物のほとんどを呑み込み、
当初、まず生存者はいないだろうと思われていたが、
たまたまホールの上にあった機械室だけはエアポケットのような状態となり、
水が入ってこないで済んだのだ。

学習センターの中にいた人たちはすがる想いでそこに逃げ込んで難を逃れた。

 

また外は雪が降るほどの寒さで、
建物内とはいえ凍え死にかねない状態だったが、
機械室の中にホールで使っていた断熱材の残りがあるのを見つけ、
松木の母がたまたま持っていた裁縫用のハサミを使って、

それを切り分け、体に巻き付けて、寒さを凌いだそうだ。

 

いずれにせよ奇跡としかいいようのない話である。

 

とはいえ・・・

その頃の松木には、現地の事情はまだ何もわからない。

 

前夜からテレビも、ラジオも、緊急体制で情報を流し続けているが、
被害状況が入るのは仙台や、せいぜい石巻気仙沼など比較的人口の多い都市部のみ

対して女川町は石巻のさらに奥にある人口一万たらずの小さな町、

待っても待ってもほとんど情報は入らなかった。

 

その頃の女川町は・・といえば、松木の両親のように助かった人たちは
一夜明けて、津波の水が引いていき、安全が確認されるまでは
それぞれ避難した場所でじっと耐えるしかない状態にあった。

 

さらに町に出ても変わり果てた姿に呆然と立ち尽くすしかなかった。

 

道路は瓦礫で埋まり、町は水没し、電話も、無線も、

通じない状況の中で町の状況を外に伝えることできなかったのである。

 

町役場も完全に冠水したことで、自治体としての女川町と宮城県
あるいは日本国との間で連絡がとれなくなっていたことから、

テレビやラジオで女川町のことを伝えていると思えば、

「女川町は連絡不能、壊滅状態?」
「予想される死者は5000人以上」といった憶測に基づく情報のみ。

そして先程、やっとテレビが映し出した空撮ライブ映像は

実際に町が壊滅状態にあることを物語っていた。

いても立ってもいられない。

松木は仙台に住んでいる兄や、地元出身の友人達に電話したり、
またインターネット、特にTwitterなどのSNSを通じて、
女川町在住者や、町の出身者と思われる人たちが交わすやりとりなど
全力で情報を集めはじめた。

 

当時、Twitterが急速にブームとなっており、
東日本大震災では情報交換の上で大きく役に立ったと言われている。

 

が、それはあくまで都市部のことであり、
高齢者が多い女川町内ではそもそもスマートフォンを持っている人も
ほとんどおらず、活用している人はせいぜい数人程度。

 

地震発生直後から町内の様子を発信しているツイートもいくつかあったが、
その数人からの発信も地震発生の1時間後くらいからぶっつりと途絶えていた。

町内にあった基地局津波で流されたか、あるいは停電したことで、
バッテリーが底をついてしまったか・・・、

あるいは・・・。

町内からの情報が途絶えてからは自分と同じように、
女川に家族や親戚がいる出身者や血縁の人々が情報のやりとりを続けていたが、
何もわからない中で不安だけをつのらせていた。

そんな中、12日の夜になってから、
仙台に住む兄がなんとか女川町にたどり着き、
両親の生存を確認したという連絡が入った。

安堵はしたものの、高齢の両親をいつまでも避難所に置いておくわけにもいかない。

 

「・・・行くしか無いな」

松木は当面の仕事の予定をすべてキャンセルし、

女川へ帰ることを決断する。

 松木の仕事はフリーのDTPデザイナー兼WEBエンジニア

 

コンピュータを使ってチラシから雑誌など印刷物のデザインをしたり、
インターネット時代になってからはWEBを作ったり、
またここ数年はさらにWEBから派生して、
ニコニコ生放送Ustreamといったインターネットの動画生配信も手がけていた。

早い話がなんでも屋さんである。

 

もともとは小さな制作会社で働いていたが、

いくつかのお得意先を得て、30半ばで独立した。

 

松木はそうしたお得意先に事情を話し、
翌日からしばらくのスケジュールを空けた。

 

しかし新幹線、東北自動車道といった東京から宮城を結ぶ大動脈は
この震災で傷つき、不通 もしくは 緊急車両のみ通行となっている。

 

松木は、翌日13日の夜にまず深夜バスで新潟へ向かい、
そこからさらにバスを乗り継いで仙台へ、
さらにそこで学生時代の友人から車を借り、
なんとか女川へたどり着けたのは2日後の15日昼であった。

 

途中途中では松木の女川行きを知った友人や知人が待ち構え、
あるいは仕事に穴を開けることで本来は迷惑をかけるはずのお得意先からさえ、

「これを持って行ってくれ」と、様々な支援物資を託された。

中でも大きかったのは市販の医薬品一式だ。

 

松木の実家が薬局だったこともあり、
知り合いで阪神淡路大震災を経験していた薬剤師の先生が
現地で必要とされる医薬品を大量に用意してくれたのだ。

 

人一人が運べる量なんてもちろんたかが知れているが、
それでもないよりはマシなはずだと託してくれたのだ。

とてもありがたかった。

 

松木はまず両親と対面すべく、

そして託された支援物資を届けようと災害対策本部を訪れた。

 

本部となっていたのは高台にあったため、

なんとか難を逃れた女川第二小学校(現・女川小学校)の校舎であった。

 

すでに災害出動した自衛隊が入り、町内の救助活動や瓦礫撤去はもちろん、
体育館では全国から続々と届いた支援物資の整理をしていた。

 

ここは松木にとっては懐かしき母校でもある。

 

この小学校の隣には、同じくこれまた母校である女川第一中学校、
さらに1980年代から90年代にかけて、
町が整備を進めた総合運動公園があった。

 

陸上競技場、多目的グラウンド、テニスコート
さらに野球場に、数千人を収容できる総合体育館まで・・

人口一万人の町としてはかなりオーバースペックといえるこの公園

 

女川町が、原子力発電所を町内に抱えるいわゆる電源立地であることから

その交付金を生かして整備した自慢の施設だった。

 

震災前は、宮城県内はもちろん、東北一帯から、
この施設を利用して、各種スポーツ部が合宿を行うなどしていた。

 

2001年に行われた新世紀・みやぎ国体の会場としても使用され、

2006年からはこの中のグラウンドを拠点として、
地域サッカークラブ「コバルトーレ女川」も活動している。

 

町のほとんどが壊滅してしまった中で、

小中学校とこの公園はほぼ丸ごと無傷で生き残り、

町内各地の高台や野山などにとりあえず逃げ込んでいた避難者の多くが、
小中学校や、公園の中にある総合体育館に集まってきていた。

 

そして、この公園と小・中学校一帯こそが町内最大の避難所として、
また女川町が復興をはじめるための前線基地として機能していくようになる。

 

総合体育館で両親の無事を確認した松木は、
町中を歩いて様子を確かめてみることにした。

 

実家はもちろん、子供の頃から見知った町並みは一変していた。

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見渡す限り山となって積み上がる瓦礫
まるで最初から何もなかったかのように土台だけとなった家

 

たまに見知った建物に出会っても、
それはもともとあるはずのない場所に移動していたり、
はたまた車や冷凍庫、あげくは漁船が建物の上に乗っかったり、
窓を突き破って刺さっていたり・・・

中には鉄筋のビルが丸ごと横倒しになっているものまであった。

失われた建物の数は実に町にあった全ての家・建物の8割を超えた。

 

また町のあちこちで焼け焦げたような、
あるいは生ぐさい匂いが充満していた。

 

女川町はほとんどの人が漁業と水産加工で生計を立てている町である。

 

海から・・ではなく、町のあちこちで冷凍された魚や、
缶詰や干物などになるべく加工を待っていた魚が大量に流され、
それが瓦礫となった建物の中に詰まっていたのだ。

 

これがのちに腐りだして、以後、半年に渡って
おもに衛生面で町民を悩ませることになるのだが・・・。

 

このときはむしろ、これがあったから生き残った人々を救っていた。

と、いうのも避難はしたものの、水も食料もなかったからだ。
特に最初の数日間はそれぞれ自力で乗り切るしかなかった。

 

そのとき役だったのが、町内のあちこちに流れ着いた冷凍庫と
その中にあった魚たちだったという。

 

電気を失ったとはいえ、真冬だったこともあり、
冷凍庫の中にはまだ冷凍されたままの魚たちが詰まっていた。

 

多くは女川町の名物でもある秋刀魚や銀鮭などであったが、
もう売り物になるはずもないこれらの魚を自然解凍したり、
側溝やマンホールの蓋などそこにあるもので工夫して調理し、
同じく津波の中を浮いて流れ着いたペットボトルの醤油や調味料で
味付けして、皆で分け合って、それを食べて過ごしたのだ。

 

中には高級マグロもあったと聞く

 

そのおかげなのかはわからないが、
避難所では割と元気な人(正確には元気に見える人)が多かった。

 

そんな中で、町に残っていた同級生や友人、知人たちとも再会する。

 

「松木、来てくれたんだ」

 

懐かしい顔を見て思わず笑みがこぼれるが、

彼らから聞く、その日、その瞬間の体験や、
また犠牲になった人たちの名前や、最後の目撃談などを聞く度、
悔しさと自分がなにもできない無力さを感じて涙が溢れるのであった。

 

同時に困難な復興への道を向かっていこうとしている同級生や友人たち、
そして町の人々のために何か役立てることはないかとも考えていた。

 

彼らと一緒に町の中を歩く中で、

松木が気になったのは、物資よりも「情報」の不足であった。

 

地図をみてもらえばわかるが、

女川町は「町」とはいえ、そこそこの広さのある自治体である。

 

加えてリアス海岸という三陸特有の地形であり、
それがゆえに良い漁場として海の恵みを受ける要因にもなっていた。
もっとも同時にそれが津波被害をここまで大きくする原因にもなったのだが・・。

 

山あり谷ありの地形の中で、
谷の部分にいくつかの集落が点在するのだが、
この状況下では行き来もままならず、
同じ町内の他の集落の様子でさえ満足に掴めなかった。

 

わずかに残った車もあるにはあったが、
ガソリンが限られている中では使うわけにも行かなかった。

 

そんな中でそれでも少しずつ町内の状況は集まってきていた。
各集落から町中心部まで情報を届けよう、あるいは支援を求めようと
10数kmを歩いてきた人がいたからである。

 

またこの頃、やっと町内の様子が少しずつ、外に伝わりだした。
これもまたなんとか町の中の状況を伝え、支援を求めようと
石巻や仙台まで徒歩やヒッチハイクで出向く人が出始めたからである。

 

のちに世界的に有名になる石巻日日新聞による
避難所での「壁新聞」が貼り出されていたのもちょうどこの頃だった。

 

とはいえ着の身着のままで逃げてきた町民にとってはまだわからないことだらけ

 

ラジオなどで東京や仙台からの情報を入手している人はいたが、

伝えられるのはそうした東京や仙台周辺の情報が中心、
さらに途中からは福島第一原発の事故が発生し、そちらに多くの時間が割かれていた。

 

わかるのは日本中が混乱しているということだけで、

いつになったら支援が届くのか?

お風呂にはいれるようになるのか?
携帯が使えるようになるのか?

・・・この生活から抜け出せるのか?

いずれしても自分達が一番知りたいことはわからなかった。

 

そんな中、避難所では不穏な噂も出回りはじめていた。

 

たとえば一部の水産加工場で外国人の留学生などが働いていたのだが、
そうした外国人が混乱に乗じて窃盗行為をしているといったもの

中には殺人事件も起きているらしいという話まであった。

 

実際はまったく根拠のない話だったが、

古くは関東大震災の際の井戸に毒を流したといった話を含めて、

災害時には起こりがちなデマではあるが、
不安や慣れない環境にあることから瞬く間に広まり、
ストレスや苛立ちのはけ口として、
時には爆発してしまうこともあるのは歴史が証明している。

 

ゆえにそうした留学生を受け入れていた企業の経営者は、
こうした噂から彼らを守るためにむしろ必死だったという。

 

そうした状況を見聞きした松木は、
町の各集落どうし、そして町の外とを繋ぎ、
きちんとした情報を提供することの重要性を感じていた。

 

女川町にはもともと防災無線が整備されており、
町内のあちこちに設けられたスピーカーはもちろん、
各家庭にも個別の受信機が設置されていた。


平常時はこれを使って、毎日夕方にテストを兼ねて、
町内の小学生による夕方の帰宅呼びかけ放送が流されてもいた。

しかし役場を含む、家・建物の8割が津波に流された今、

そのシステムも壊滅してしまった。

 

町に残されていたのはたまたま高台を走っていて、
難を逃れたスピーカー付の広報車2台のみ

 

防災無線、なんとかならないのか?」

 

役場で働いていた同級生に聞いてみるが、
電気さえ復旧の目処が立たないいま、


「どうしようもない」と返されるだけだった。

 

それでも何もせずにはいられなかった。

次に思いついたのは避難所で作られはじめていた
避難者名簿をインターネットで公開することだった。

東京からこちらへ移動するときに、
google社がパーソンファインダーというシステムを立ち上げたニュースを思い出した。

 

町の外には自分と同じように女川に家族や親戚がいて、
町の様子を知りたがっている人、
特に無事を確かめたがっている人がたくさんいる。

 

それは避難所にいる人達も同様で
家族や親戚に自分の無事や家族の状態を
知らせたいと思っている人もたくさんいた。

 

で、あればその名簿をあのシステムで公開すればよいではないか?

 

しかし電気も、携帯電話も通じない状況にあっては
インターネットなどどうにもならない状況だった。

さらに避難者名簿は個人情報でもある。

 

いくら同級生とはいえ、役場にいた友人も
「自分の一存では勝手に決められない」と最初は渋った。

 

「でも今は緊急時だろ?」

・・・このあと松木はさまざまな場面でこの押しの強さを発揮する。

 

相手をでも今押し切り、デジタルカメラで避難者名簿を撮影していくと、
今度は自転車を借りて、急いで隣の石巻市まで走った。

 

石巻市ももちろん大きく被災しており、
電気や携帯電話も通じない場所がほとんどだったのだが、
女川まで来る途中に携帯電話のアンテナが立つ場所があったのを覚えていたのだ。

 

繋がるのがauだけだったことと、
その場所が見通しの良い丘の上だったことで、
のちに一部の人の間で、通称「英雄の(auの)丘」と呼ばれるその場所まで、
松木は10km以上もペダルを漕いでたどり着いた。

 

「行ける!!」

アンテナマークを確認すると、
インターネットに接続し、東京にいる友人・知人ら宛に急ぎメールを書いた。

 

自分がいま被災地となった故郷にいること、
故郷・女川町の現状、
添付している写真が避難者名簿なので、
それをテキストファイル(文章化)して
googleのパーソンファインダーに登録してほしいこと 等々。

 

メールを送った友人・知人らは、
松木が近年、WEB関係の仕事をするうちに
親しくなっていたコンピューターの猛者が中心

 

彼らならきっと自分の願いを受け入れてくれるはずだと考えたのだ。

 

事実、その通りで、友人達は松木からの要請を受けると、
直ぐさまに写真から何千名分もの手書きの名簿を写真から読み取り、
手分けをしてそれを打ち込んでいった。

しかもたった一晩のうちにである。

 

これはすぐに効果が出た。

 

女川町からの情報が流れていったことで、
自分の肉親や親戚の無事や所在がわかり、
中には女川まで出迎えに行ったり、
出迎えには行けないまでも、なんとか生活を助けようと
避難所宛に配送されるようになった宅配便などを使い、
個別に支援物資を送る人も現れはじめたのだ。

 

またちょうど同じ頃、同じくこの英雄の丘の存在に気づき、

女川町の状況をTwitterに情報を発信しはじめた男がいた。

 

男の名は高橋正樹 36才、
女川町内にある蒲鉾製造会社「高政」の4代目である。

 

2011年3月17日夕方5時

高橋は英雄の丘に立ち、かすかな電波を頼りに

自分や会社に連絡をとろうと外から山のように飛んでくるメールを受信していた。

 

基地局は混み合っており、途中で切れたりすることが多かった。

また無事を知らせるために返信しようにもこれまたなかなか送信ができなかった。

しかしとにかく根気よくトライした。

それしか外と繋がるすべがなかったからだ。

 

しかし、これではキリがない。

 

そんなときにたくさんの人に、
会社の状況や女川町の状況を伝える手段として思いついたのが、
震災前から活用しはじめていた自社のTwitterアカウントを活用することだった。

 

3月11日以降、更新していなかったTwitterのアカウントで、

さっそく会社と女川の現状をツイートすることにした。

 

彼の会社「高政」の本社兼工場は、

町中心部からは少し外れた「浦宿」という地域にあった。

 

この浦宿」一帯は少し高台となっており、
津波はギリギリここまでは到達しなかった。

そのため町内の水産加工工場としてほぼ唯一、津波の難を逃れたのである。

 

しかし自宅は津波に呑まれ、そこにいた先代の社長でもある祖父を亡くしている。

 

現在は父が社長を務め、自分は部長として現場で修行中の身だったが、
運の悪いことに父は海外出張中で連絡がとれず、

会社を支えてきた先輩社員たちと共に、
事実上の会社のトップとして会社を切り盛りしていた。

 

町内外とも道路が寸断し、
また車もガソリンも足りない状況下ではあったが、、
仙台のデパートなどに出荷されるのを待っていた蒲鉾を
町内や隣接する石巻市の避難所などへと運びいれ、
社員と手分けして配って歩いた。

 

また少しでも暖かいモノを食べてもらいたいと、
電力会社に掛け合い、19日には工場への電気を復旧してもらい、
残っていた材料を使って、蒲鉾の製造を再開した。

 

そのとき思い出していたのは、
「(女川という)地域あっての会社だ」という亡き祖父の口ぐせだった。

作っては配りを繰り返しながら、その合間にTwitterでの情報発信を続けた。

女川の情報を求めていた人たちにとって、

高橋のツイートは藁をもつかむような気分だったようだ。

 

家族や親戚、友人、知人の消息を訪ねたり、

町内の特定の場所や企業の状況を問い合わせる
メンション(自分宛のツイート)がひっきりなしに飛んできた。

時間の許す限り、それに答えてはいたが一人では限界があると感じてもいた。

 

 

一方で、松木は両親を連れていったん東京へと引き上げることにした。

 

屋根のついたまともな建物が数えるほどしか残らなかったことから、
避難所となっていた学校の校舎や体育館はどこもぎゅうぎゅう詰め

特に体育館はフロアや柔剣道場だけでなく、
玄関や下駄箱の前に至るまで人で溢れていた。

 

プライバシーどころか、足の踏み場もない程で、
トイレや衛生面の問題で体調を崩す人も増えてきていたのだ。

 

支援物資や医療などの面は
自衛隊が本格的に活動を開始したこともあり、
少しずつ整いつつはあったが、

高齢の両親をずっとこのままにしておくわけには行かなかった。

 

東京の自宅は狭いアパートではあったが、
ここに置いておくよりはマシだろうと説得したのだ。

 

両親を連れて東京へと引き上げた松木だったが、

テレビやインターネットで引き続き女川町の情報を集めていた。

あの惨状が続いている女川町のことを思うと落ち着いてはいられなかった。

 

特に気になっていたのは町と外ではなく、町の中を結ぶ情報伝達手段のことだった。

 

一応、各避難所の壁には

様々な情報を書いたチラシが所狭しと張り出されていたが、

あまりにも多すぎて、それが誰に向けたものなのか?

いつ張り出されたものなのか?よくわからない。

 

また女川町では元々の住んでいる地域ごとに、
行政区という地区分けがあり、区長さんが置かれていた。
いわゆる戦時中に組織された「隣組」の名残である。

 

避難所でもこのシステムが生かされ、
ほとなくして元々の区長さん中心に避難所の長が決められ、
この区長さんを中心に情報が伝達されるようなったが、

 

瓦礫となった自宅跡の片付けや、
見つからない家族の捜索

さらに自宅は失ったものの、仕事場が生き残ったため、
むしろ復興のためにと職場から呼び出されて
避難所から仕事場に通う人などもいて、
生活時間も滞在時間もバラバラ

 

この情報が届かないという人もたくさんいた。

 

仕方の無いこととはいえ、

特に若い世代にとっては不公平なのではないか?

 

そんな思いを強くしていたとき、
NHKを見ていると、あるニュースが飛び込んできた。

同じ宮城県津波被害にあった町、

山元町に臨時災害放送局が誕生したというのだ。

 山元町臨時災害FM放送局 りんごラジオ

 

東北放送の元アナウンサーで、

定年後に山元町に住んでいた高橋 厚さんを中心に、
山元町の主婦などもボランティアで参加し、
避難所に必要な情報などをFMラジオで放送するという。

 

中高校生時代、エアチェックをするなど、
ラジオはよく聞いた方だったし、
この高橋さんという元アナウンサーも聴き覚えはあった。


しかし、「臨時災害放送局」というのは初耳だった。

そこでネットを検索してみると、Wikipediaにはこう書かれていた。

臨時災害放送局(りんじさいがいほうそうきょく)は、放送法第三条の五に規定する「臨時かつ一時の目的のための放送」(臨時目的放送)のうち、「暴風、豪雨、洪水、地震、大規模な火事その他による災害が発生した場合に、その被害を軽減するために役立つこと」(放送法施行規則第一条の五第二項第二号)を目的とする放送を行う放送局。「臨時災害放送局」の語は電波法関係審査基準による。口頭による申請により、即座に免許の発行と周波数の割り当てが行われる。

wikipedia 2011.3/30日版より

 特に松木の目を引いたのは

口頭による申請により、即座に免許の発行と周波数の割り当てが行われる。

という部分だった。

 

ラジオ番組を作ったことはなかったが、
最近の仕事で関わっているネットの動画生配信を通じて、
マイクやミキサーといった音響機器を扱える知人もいた。

 

これくらいなら自分たちでもなんとかできるかもしれない。

 

「これだ!!」

思いついたらすぐに動かずにいられない松木は、
さっそくパーソンファインダーの時に助けてくれた友人・知人達に宛てて、

すぐさまメールを打った。

先日の経験から彼らの中に力になってくれる人がいるかもしれないと期待して・・

件名:100WのFM送信機貸してくれる人いませんか?

こんばんは松木でございます。

何方か100wのFM送信機貸してくれそうな方いらっしゃいませんか?

実は私、今回の震災で実家の女川町が完全被災地になりまして。

先日、諸々微力ながら手伝ってはきたのですが、

一点どうしようもない案件があります。
元々あった、役場の防災無線親機が水没してしまい町内のコミュニティーが分断されていました。
メーカーからは復旧が3ヶ月かかるとか言われる始末。

半ばあきらめていたのですが、
本日のNHKの報道で「臨時災害放送局」って制度がある事を知りました。
災害時に電話一本で放送局を開設できる素敵な法律です。

今回の災害で、各地域FM局が出力倍増させ防災無線の代わりとして活躍してるらしいのです。

もし、どなたか強力なFM送出できる機材お持ちでしたらお貸し願えないかと思います。

よろしくお願いいたします。

尚、他の方法で良いアイディアがありましたら教えてください。

松木

 

続く