女川さいがいFM☆中の人かく語り記

A small small radio station was born in the town which suffered destroying damage by the past which isn't so far, 2011 and a tidal wave.

ドキュメント・女川さいがいFM:2015年9月11日金曜日 残り時間はあとわずか

女川小学校の校庭の片隅にある女川さいがいFM

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人口六千人の漁村である宮城県女川町とその周辺地域に、

地域情報を中心とした番組や音楽を

FMラジオとインターネット配信で放送しているラジオ局だ。

 

スタジオは四坪ほどのプレハブ もとい トレーラーハウス

 

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現在は一日一回昼に2時間の生放送を行い、

その他の時間帯は音楽や事前に録音した番組を放送している。

 

小さいとはいえ、国の免許を受けて運営しているれっきとした"放送局"である。

 

聞こえる範囲は小さくともその担う責任や役割は、

ニッポン放送やTOKYOFM、あるいは日本テレビやフジテレビといった

皆さんよくご存じの放送局と変わらない。

 

しかし、実際に番組に出演しているのは

そうした放送局と違い、有名なタレントでも、滑舌のいいアナウンサーでもない。

 

下は中学生から、商店街のお店の店主や学校の先生まで

ほぼ全員がこの小さな町や周辺の地域で生まれ育ち、

今も住んでいるごく普通の「町民」である。

 

基本的には全員がボランティアだが、

中にはそこから転じて、

現在はこのラジオ局専任として、

給料をもらって活動しているスタッフも3人いる。

 

東日本大震災による津波で町の八割の建物が流されるなど

甚大な被害を受けたこの町では、

被災後、しばらくの間、ライフライン全てが失われ、

ケータイの電波はもちろん、防災無線も使えなくなり、

町の中と外だけでなく、町内にさえ情報を伝える手段がなくなった。

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そうした状況をなんとかしようと東京からのボランティアと、

その呼びかけに応じた地元の若者たちが協力し、

臨時災害放送局”という制度を利用して作ったのが、このラジオ局である。

 臨時災害放送局はよくコミュニティFMと一緒になって語られる。

あるいは災害コミュニティFMなどと報道される場合もある。

 

コミュニティFMとは、市町村単位を放送エリア

(電波の届く範囲)とするFMラジオ局のことだ。

 

一般の放送局が県域=ひとつの県を単位としているのに対して、

○○市とか、東京であれば、○×区といった範囲を単位とする。

 

つまり聞こえる範囲は一般の放送局に比べると狭く小さい。

 

その替わりに県域の放送局にはできない地域に密着した情報を伝えることで、

地域のコミュニティを繋ぐメディアと期待され、1992年に制度化された。

 

たとえば第一号の「FMいるか」は北海道の函館市にある。

 

函館といえば観光都市として全国に知られ、

かつては連絡船が、そして来年からは北海道新幹線

津軽海峡を通って本州と北海道を結び、

まさに北海道の玄関口となっている町だが、

 

北海道の中心であり、道庁のある札幌市からは

実に300km以上離れていて、

同じ県内とはいえ、気候も文化もかなり違う。

 

にもかかわらずテレビ・ラジオが伝えるのは札幌あるいは東京からの情報が中心

 

そこにローカルの情報を伝える「地元の」ラジオ局ができたということで、

市民からは熱烈な歓迎を受け、今ではすっかり定着している。

 

以来、函館に続けと全国各地で開設され、現在は約300局が放送を行っている。

 

臨時災害放送局の場合も、放送エリアは市町村単位である。

従って放送を行うための機材など技術的にはほとんど共通している。

 

では、どこが違うのか?といえば、大きく分けて4つある。

 

ひとつは「放送を行う目的」が限定されていること。

臨時災害放送局(りんじさいがいほうそうきょく)とは、放送法第8条に規定する「臨時かつ一時の目的(総務省令で定めるものに限る。)のための放送」(臨時目的放送)のうち、放送法施行規則第7条第2項第2号に規定する「暴風、豪雨、洪水、地震、大規模な火事その他による災害が発生した場合に、その被害を軽減するために役立つこと」を目的とする放送を行う放送局

(wikipediaより)

 

ここにも書かれているように、その「目的」とは、

 

地震や台風、津波などの災害によって

甚大な被害が発生した場合、

その被害を軽減するために役立つことを放送することにある。

 

ふたつは放送局開設に必要な手続きのほとんどを簡略化していること

 

我が国において、

放送局を運営するための「免許」を受けるためには

必要な機材やスタッフを揃えることはもちろんだが、

それ以外にも様々な手続きやプロセスがある。

 

その地域で新しくラジオやテレビ放送をするための

周波数(チャンネル)の空きがあるか?といった技術的な調査にはじまり、

いざ放送を始めた後、その運営会社がきちんと責任を持って放送を継続していけるか?

出資している個人や企業、当面の事業計画といった財務状況に至るまで、

実に様々な項目にわたっての審査がある。

 

そのため、コミュニティFMのような小さなラジオ局でさえ、

いざ「作ろう!」と思い立っても、実際に電波が出て、

放送できるようになるまでに2~3年の準備期間がかかることは珍しくない。

 

また実際に手続きを進めても、結果「免許」が降りないという場合もある。

 

Ustreamや、ニコニコ生放送などのネットメディアを通じて、

いまや個人レベルでも万単位の人に「放送」を届けられる時代だが、

国が管理する公共資源である「電波」を使うというのはそれだけ大変なことなのだ。

(諸外国では、もっと自由度が高かったり、簡素な手続きで済む国もあるので、

あくまで我が国においては・・ということにさせていただく)

 

ところが・・・

臨時災害放送局の場合は

大災害に見舞われた被災地で放送を行うことが目的とされているため、

この手続きを全てすっ飛ばしてしまえる。

 

具体的に言うと・・・

市長、町長など被災した自治体の首長から総務大臣に対し、

電話などで開局を申請することにより、

即座に免許の付与及び周波数の割り当てが行われるのだ

 

つまり三つ目は、(免許を受ける)運営者が地方自治体であること である。

 

コミュニティFMの場合は、

第三セクター方式など自治体が出資も行うなど、

色濃く関わっているケースもあるが、

多くはそれぞれの地域で民間企業などが出資しあって、

新たに運営会社を設立し、その会社が免許を受けている。

 

そして免許を受けた会社は、

県域のテレビ・ラジオ、民間放送局と同じく、

地域内の企業などからスポンサーを募り、

その広告収入を中心に放送事業を行っている。

 

このモデルは、地元にそれなりの人口がいて、

さらに地場の産業なり出資してくれる大企業があって、

そこが順調であればうまく廻っていくのだが、

不景気が続く中、大半の局が厳しい経営状態におかれており、

中には倒産して、放送をとりやめる局も出てきている。

 

またスポンサーとして期待できるような企業などが少ない地域では、

それならば市民が自分達でお金を出し合って放送局を作ろう!と

NPOを作ってその会費などを元に運営するケースも出てきている。

 

いずれにしても、地方自治体自身が

免許を受けて、放送を行っているケースはない。

 

あくまで大災害に対処するための

「臨時かつ一時的な目的のための」放送ゆえの「特例」なのだ。

 

また免許は確かに地方自治体が申請するのだが、

地方自治体は、もともと放送局の運営をすることを想定しておらず、

特にそれを担当する部署や専門知識を持った職員はいない。

 

また被災」した自治体では、そもそもやることがありすぎて、

職員もフル稼働なので、そもそもそんなことをしている余裕もない。

 

では、誰が実際の「放送」業務を行うのか?

 

一部に市役所などの職員自身が放送を行ったケースや、

既存のコミュニティFMや民放の支援を受け、

そうした経験者が放送を行っていたケースもあるものの、

 

社会福祉協議会や、商店街組合組織など、

その地域で福祉やイベントなどに関わる団体に委託したり、

申し出のあった ボランティア団体に委託したりといったケースが多く、

その多くは放送の素人であった。

 

最後はその名の通り「臨時」つまり期間限定であるということ

自治体が免許人となり被災地域を対象に必要最小の出力で、また免許期間は被災者の日常生活が安定するまでの間運用されることになっている。(wikipediaより)

 

東日本大震災地震津波、あるいはそれに起因した原子力災害により、

被災した東北から関東にかけての地域で、

臨時災害放送局が最大時で30局以上が開設された。

 

内陸部で被害が比較的少なかったところでは数週間から、

1~2か月程度で終了したところも多かったし、

もともとその地域にコミュニティFMが開局していた地域では、

そのコミュニティFMが設備・運営を肩代わりする形で移行していたので、

そうした局は、すべて元のコミュニティFMへと戻っている。

 

しかし、現在も臨時災害放送局として運営を続けているところも、

岩手・宮城・福島 だけで8局ある。

 

岩手県大槌町陸前高田市

宮城県気仙沼市と山元町、亘理町、そして我が女川町

福島県原発避難区域の富岡町と南相馬市

 

私達、女川さいがいFMを含めて、その8局すべてが、

震災前には地域にコミュニティFMがなく、

新たに一から開設された局であり、

さらにいえば人口あたりの被災規模、被害の度合い、被災後の人口減少など

特に難しい課題を抱えている地域でもある。

 

免許期間の目安とされている

日常生活の安定”というのが、

どこまでを指して安定したとみなされるのか?判断は非常に難しいところだ。

 

ゆえに、震災から5年が経とうとしている現在も

私達も含めて、放送を続けているのだ。

 

震災前の女川町には、コミュニティFMはなかった。

 

お隣の石巻市宮城県第二の都市ということもあり、

「ラジオ石巻」が開局していたが、

そこから山道を抜けていく牡鹿半島にある女川町まではあまり電波も届かなかった。

 

そうした町でラジオ局を作ろうというのだから、

当然ながら経験者などいるわけもなく、

ほとんど全員が経験値ゼロからスタートした。

 

当初は2~3か月程度の見込みではじまったが、

復興が進まない町の現状と、ラジオを聞いてくれる町民の継続を望む声に押されて、

延長、また延長を繰り返し、気がつけば4年半の月日が流れていた。

 

その間に仕事や住む場所の都合で女川で生きていくことをあきらめたり、

あるいは進学などで町を離れていったメンバーもおり、

当初は11人いたスタッフも減っていき、

現在ではスタート時から残っているのは

週末のみパートで手伝ってくれている人も含めて3人だけ

 

途中から入ったスタッフを加えても総勢5人。

さらに学校が休みの日だけ手伝ってくれる中高校生のボランティアや、

東京や各地から支援するボランティアがいるとはいえ、

この人数で週7日、24時間休むことなく放送を出し続けるのは

かなり厳しい状況ではあった。

 

夕方6時過ぎ、この日の生放送や収録は終わっていたが、

スタジオには珍しくスタッフ全員が集まっていた。

さらに普段は東京にいる代表の松木達徳や統括の大嶋智博らの幹部スタッフ、

さらに現在は東京の大学に通っている初期からのメンバー、

阿部真奈もたまたま帰省していて揃っていた。

 

これだけの人数がそろうのは、最近では年に一、二度あるかないかだ。

 

 奇しくもちょうどこの日は、東日本大震災の月命日。

 

この11日という日は、あの日を境として、

”生き残った人”と”亡くなった人”を分ける意味を持つようになり、
スタッフたちもどこか落ち着かない気持ちになることが多かったのだが、
この日は朝からあわただしく、いつもとはちょっと様子が違っていた。

 

昼には、さいがいFM、女川町のお友達として、

3年前から交流してきたアイドルグループ「ももいろクローバーZ」がやってきた。

翌日に仙台でのコンサートを控える中、

忙しいスケジュールをやりくりして、時間を作ってくれたのだ。

 

今回のメインはお隣にある女川小学校への訪問。

 

4時間目を全校集会の特別授業にしてもらい、

そこにサプライズで、ももクロが登場。

これは3年生を受け持つ、佐藤哲平先生からのリクエストだ。

 

震災前の女川町は、海も、山も、町の中にも、いくらでも子供達の遊ぶ場所があった。

しかし、今は学校と仮設住宅を往復するだけの生活が続き、

復興工事の影響で、公園など遊び場もなくなってしまっている。

残された体育施設などを通じて部活動などに一生懸命ち込む子もいるが、

ストレスを抱え、生活習慣が乱れてきている。

先生方もあれこれ工夫をこらして指導しているが、

なかなか言うことを聞いてくれない。

 

そこで、何度も町を訪れて交流し、

子供達の人気も高い「ももクロ」から言ってもらえれば・・

というのが、佐藤先生の考えた作戦なのだった。

 

ももクロのメンバー達は先生の意図を理解し、

子供たちと全力で向き合ってくれた。

女川町の祭にかかせないオリジナルソング「さんまDEサンバ」を一緒に歌い踊り、

バスケットボールで対決をし、

さらに各教室を回って子供たちと一緒に給食も食べ、

あげく午後の授業の始業チャイムが鳴っても

なかなか手を離してもらえないほどだった。

ともすると、今日が11日だということを忘れてしまうくらいに、

学校の中は笑顔と歓声で溢れかえっていた。

学校を出たあと、もちろんラジオにも立ち寄ってもらい、

いつものごとく、番組にも出演してもらったのだが、

こちらも子供たちに負けず劣らずの爆笑トークが繰り広げられた。

 

が、すべてが終わり、ももクロのメンバーが帰っていったあと
スタジオの中は一変して重い空気に包まれていた。

 

と、いうのも、ちょうどこの日に前後して、

のちに「平成27年関東・東北豪雨」と名付けられることになる台風18号、
あるいはそれが転じた温帯低気圧が各地で猛威をふるっていた。

 

まず静岡県、愛知県など東海地方を中心に甚大な被害を出し、

さらに北関東から東北にかけてものすごい量の雨を降らせ、

茨城県や栃木県、そして女川と同じく

宮城県内でも河川の堤防が決壊するなどして住宅が床上浸水したり、流されるなど、
あの震災の津波被害を思い起こすような大災害が発生していた。

 

ももクロのメンバーもそんなニュースの中を東京から移動してきていたので、

新幹線は動くのか?、仙台から先、道路は通れるのか?など不安を感じながら
やっとたどり着いたという・・。

が、しかし、女川町は運よく直撃コースからは外れていたことから、
特に被害もなく、夜中に少し強い雨が降った「程度」だった。

しかし震災以来、地盤が大きく沈下し、台風だけでなく、

ちょっとした大雨でもすぐに道路が冠水して繰り返し被害が出ていたこともあり、

 

町外に住んでいる人

あるいは仕事で石巻や仙台から女川に通う人たちの中には、
女川町は今どうなっているのか?
この台風・低気圧の影響や被害があるのか?
あるいはないのか?ということを気にしている人も少なからずいた。

 

今まではこういう事態が起こったとき、あるいは予想されたときは

ほぼ必ず、女川さいがいFMは通常の放送を休止して町内の様子を伝えていた。

ラジオ放送だけでなく、Twitterを使ってリスナーからも情報を集め、

双方向で情報を発信していたことから、

イザというときは「女川さいがいFM」という信頼も得ていた。

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昨年の秋、大型の台風により町中心部が冠水し、

丸一日道路が通行止めになった際には「女川さいがいFM」が発した情報が、

NHKのニュースで取り上げられたこともあったほどだ。

 

ところがこの日の朝、女川さいがいFMは、

この大雨に関する情報を一切放送しなかった。

放送だけではない。
いつもは放送と同時に事細かに情報を伝えているTwitterなどでの
速報もしていなかった。

 

さすがにこの事態を不思議に思った人も多かったようだ。

実際、ツイッターには「女川はどうなっていますか?」と尋ねてくる

メンション(自分宛の@ツイートのこと)も飛んできていた。

 

震災を機に生まれた「臨時災害放送局」である女川さいがいFMには、
放送をはじめた当初から自分たちで決めたいくつかのルールがある。

その中のひとつが震度4以上の地震発生時や、
大雨・台風などあらかじめ大きく被害が出ることが予想される悪天候時は
常にいつでもすぐに臨時放送や情報発信を出せる体制をとること。

そのために全スタッフが協力しあうこと。

震災直後はほぼ全員のスタッフが避難所で暮らしていたことや、
余震も多かったことから、宿直による当番制の体制をとっていた時代もあったが、
さすがに現在はそこまではしていない。

が、グラッときたら、あるいは豪雨や台風の発生時には、

各自が情報に注意し、何かあれば電話や

スタッフ間のLINEの連絡網を通じて即座に連絡をとりあい、

必要があれば、そのとき動けるスタッフから順に

スタジオに駆けつける取り決めになっていた。

 

臨時災害放送局」である限り、

イザというときに役だたなくてどうする?

スタッフが減ってきているからといっても、

これだけは絶対に守らなければならない・・・、はずだった。

 

この日の明け方、

東京でS.E(システムエンジニア)の仕事をしている天谷窓太は、

徹夜で会社に泊まり込んで仕事をしていた。

彼は開局当初から女川さいがいFMにボランティアとして関わっている。

 

元来ラジオ好きであったことに加えて、

仕事柄、コンピューターやインターネットに精通しており、

女川のスタジオに置いてある放送管理用のコンピュータを遠隔操作し、

東京から番組の編成作業などを担当している。

 

前日からのニュースを受け、

彼は仕事もそっちのけでテレビが伝える台風情報を注視していた。

 

午前3時、そろそろ宮城県に差し掛かりそうだというタイミングで、
天谷は取り決めとおりにまずLINEの連絡網にて、
「台風がそろそろ宮城を通過するけど、女川の様子はどうか?」
尋ねるメッセージを送信した。

夜更かし族なスタッフも多いためか、
いつもならしばらくすると誰かしらから反応があるが、

この日はいくら待っても呼びかけても反応がない。

仕方がないので、天谷は自分でネット上からトレースできる現地の情報を探したり、

被害や道路の通行止めが出ていないか?石巻の警察や消防に問い合わせるなどして、
一人で情報収集をはじめ、

(これも、まずできる人がやるという取り決めを作ってあった。)
その範囲の情報をツイッターなどに出していった。

 

結局、最初に現地のスタッフから反応があったのは夜が明けてから

普段はミキサーを担当している石森 充からのものだった。

それによれば・・

自宅付近の様子を見てみたら、雨はたいしたことがなかったので、

緊急放送をするほどの必要はないと思い、

そのまま連絡せずに寝てしまったのだという。

 

そして、その他のスタッフからはとうとう連絡が無かった。

 

すでに前日からテレビは終夜体制でこの台風の話題を伝えていたのに・・である。

天谷は「いくらなんでもこれは酷い」とLINEの中で激昂していた。

そんな天谷の気持ちを汲み取り、集まったスタッフ全員を前に代表の松木は言った。

 

「うちは臨時災害放送局なんだ、

      こういうときに何にもできないのだったら意味がないじゃないか!」

 

普段はやはり東京からプロデューサーとして、放送内容を監督する大嶋が続けた。

「みんな何をしていたのか?寝ていたのであればそれで構わないから教えてほしい。」

 

まず口を開いたのは、町内の塾の先生をしながら、

掛け持ちで週2回、パーソナリティーを続けてくれている木村太悦だった。

「すみません、寝てました。申し訳ありません!」

それだけ言うと、本当にすまなさそうに下を向いていた。

 

「宮里はなにしてたの?」

現地スタッフの中で中心的役割を果たしてきた看板パーソナリティーであり、
ディレクターである"さいじゅ"こと宮里彩佳は、バツが悪そうに口を開いた。

 

「実は起きてて、返事をするかどうか迷ってた。
 でもやっぱりたいした雨じゃないと思ったし、
 誰かが返事をするだろうと思って・・」

 

「体調が悪かったの?」

 

「それもあった」

 

「なら、仕方ないけど・・」

 

実は宮里はただいま妊娠八ヶ月目に入ったところだ。
夏前に妊娠が発覚し、今月いっぱいで出産準備のため、
災害FMを離れることになっていた。

 

「まっちは?」

 

「ごめんなさい。それと・・お話の途中なんだけど、

 これから復興まちづくりの会議にFM代表で出なくちゃいけなくて・・」

 

まっち こと 阿部真知子は昨年11月に募集に応じて入ってきた。

まもなくやっと一年になろうという一番新人のスタッフである。

宮里を中心に回っていた女川さいがいFMの現地の制作体制を強化するため、

宮里ディレクターの補佐役として育成していたが、

宮里の妊娠発覚、そして離脱に伴い、

急遽、それまで宮里が担当していたさまざまな仕事を

ほとんど一人で引き継ぐことになり、それどころではない状態となっていた。

 

重ねて8月、9月は

ほぼ毎週末ごとに町内の祭りごと、イベントなどが入り、

さいがいFMのメンバーはその取材や手伝い、

司会業などさまざまな仕事をこなしており、

ほとんど休みもなくフル稼働している状態だった。

そこに加えての引継ぎと戦力ダウンだった。

 

申し訳なさそうに阿部が会議へと中抜けしたあと、 

「とはいえ・・・」松木は続けた。

 

「それを言い訳にして、

 大事なとき、イザというときに放送しない、できないではどうしようもない。

 それだったらもう災害FMの免許は返上するしかないじゃないか!」

 

そして全員の顔を見回しながら、さらに続けた。

 

「もう、(放送を)辞めた方がいいんじゃないか?」

 

この日まで約4年半、放送を続けてきた中で、

節目節目ごとに、こうしてスタッフ全員が集まって

今後どうしていくか?話し合う機会があった。

その時々ごとに様々な課題もあり、反省することはあったが、

その度にそれを克服し、乗り越えてきたように思う。

またその都度、前を向いて引っ張っていこうとするスタッフがいた。

宮里も、過去、何度もそういうがんばりを見せてきた引っ張っていくスタッフだった。

 

しかし、今回はそういう雰囲気ではなかった。

全員がもう限界だと感じはじめていたのかもしれない。

 

「・・・とにかく」大嶋が続けた。

 

「うちは臨時災害放送局なんだし、何のためにやっているのか?

 続けてきたのか?これじゃあわからない。

 初心を思い出して、頑張ろうよ。」

 

全員が下を向いたまま頷いた。

 

現実には半年後に迫った来年の3月11日以降、

このラジオ局をどうするのか?
いよいよもって決めなければならないときが近づいていた。

 

終了するのか?
それともコミュニティFM局に移行するなどの方法で継続していく道を選ぶのか?

 

免許の更新は一年単位

 

これまでは女川町の復興がなかなか進まない事情から、
「臨時」のまま、毎年延長を重ねてきたが、

今年は駅も再開され、目に見える形での復興

新しいまちづくりも始まった。

 

「さて、どうするか・・・。」

考える時間も本当にあとわずかになっていた。

 

続く